好きなところは、全身全霊のパフォーマンス。そこから伝わってくる7人だけが持っている世界観。「次はどんなものを見せてくれるんだろう?」という希望。仕事が終わっても、お揃いのクツ履いて2~3時間人狼で遊んでいる家族のような仲の良さ。7人が織りなす優しい空気。7人それぞれの夢と7人だけの夢。
枚挙に暇がない。
1個だけその危うさがどうしても気になっているところがある。
作り手の考えを一つ考えたとしたら、受け取り手も違う視点が持てる、
お客さんの目線、理解させてあげる、変えてやる、のくだり。
言いたいことはとっってもよく分かる。
もし自分が役を演じる側の立場だとしたら、
外見の変化やアクションが上手くいったかどうかなど、
一見物語の世界に没入できていないように思われる感想ばかりを多く見かけたら、
こんなに多くのことを表現しようとしているのにファンは何を観にきているんだろう?とか、
一生懸命稽古に励んで神経をすり減らしながら舞台に立ってもこんなことしか感じ取ってもらえないのか?とか考えると思う。
舞台の中身をちゃんと観てくれる人が来てくれればいいのに。
観る人が分からないなら、どうやって舞台を観ればいいか自分たちが教えてあげればいいのだと。
でも、きっと気づいているからこんなところで改めて言うことではないけど、
それは「エンターテインメント」とは呼べない。
小説や漫画、舞台や映画、ドラマなどのエンターテインメント作品に対峙して、
何に感動して、何を考えて、何を想像するかは、全部受け取り手の自由で、
たとえ作り手であっても、その自由を奪うことは決してできない。
もし、受け取り手の感情の昂りや考えと閃き、無限の空想を、
エンターテインメントの煌めきを操作してしまったら、
それはもはやエンターテインメントではなく、
啓蒙、指導、偏りある思想に一歩近づいてしまう。
受け取り手は、エンターテインメント作品を、経験や知識、感受性など、
今まで生きてきた中で自分の中に育ててきたものを、
できる時には、まるごと総動員して受け止める。
心や身体の状態、バランスが取れてなくてできない日ももちろんある。
「自分の内側にあるものしか外側から見ることはできない」、
本当にその通りだと思ったよ。
たとえば、表現手法としてオマージュが使われることがあるけど、
もし引用元の作品を読んだり観たりしたことがあれば、
「この作品のことだ!」と分かって、作品への理解をより深められるかもしれない。
知らなければその時は分からないかもしれないけど、後から知れたら同じように楽しめる。
受け取り手は、知識も経験も今まで生きてきた道も十人十色だ。もちろん作り手も。
だから、同じように作品について抱く感想も違う。違うって面白い。
好きとか嫌いとか、かっこいいとか愛らしいとか。
ずっと心に留めて、これからの人生の中で、
折に触れては自分の中で物語を反芻し情景を思い出したくなるような作品だ、と感動することもあれば、
作品のこの部分はどう考えても理解できない、現代では改めるべき価値観だ、
と批判することもある。
それを心にしまっておくかどうか、作り手に伝えるために手紙に書くかどうか、
インターネットの海に発信するかどうかも、全部受け取り手の自由。
目に見えているものだけが全部じゃない。
どうか目に見えるものだけに飲み込まれないでほしい。
健全な作り手と受け取り手の関係は、優劣も上下もない状態だと私は思っていて、
どちらも真っ当に生きてるだけで素敵なこと。
ただ、観劇する上で心得ないといけないマナーは肝に銘じておきたい。
もし本当にどうしても伝えなければと思うことがあったら、
間にフィルターが入ってしまっている雑誌の記事よりも、
文字でも映像でもいっぱい持っているメディアを使って、自分達の言葉で伝えてほしかったな。
でも、こういう風に、どこかで言葉にして発散できているうちはまだ大丈夫かなと安心する気持ちもあった。
日常においても駅前にこの前まであった店が一軒また一軒と閉店していったり、
エンタメの世界も今までと全く状況が変わり難題に向き合わないといけない中で、
7人だけはずっと変わらずに元気で笑顔でいられると考える方が不自然だから。
想像もできない色んな大変なことがあると思う。
7人だけにしか分からないことも、1人だけで考えてることも。
夢の通り道を元気に歩んでいけますように。